「以後」


このしばらく、いや数カ月、あるいは半年、
文芸雑誌をはじめとして、至る所で使われるようになった文字。
それが「以後」。
と言えばまぁ日本人なら想像できようが、
三月の震災の「以後」という表現をあちらこちらで見る。
主に、表現に関わるもので。

それについて色々考えた記事なので、
そういった文章が嫌いな人は回れ右。
一応畳む。


「以後」の一言で「三月の震災以後」をつまむのは、
何というかこう随分乱暴だと思うのだが、
それで通じるのが不思議でもある。

「以後」の経験としては、
「阪神大震災以後」とか
「同時多発テロ以後」とか
「空爆以後」とかあるはずなのだが、
最新だという事を差っ引いても
「三月の震災以後」の略語としての「以後」は強い。

私は基本的に明日を信じ切っていないので、
明日何が起きてもおかしくない、といつも感じていて、
多分それ故に地震の時もそこまでの価値観の揺らぎは多分無かったのだが、
明日が信頼できないという事がたくさんの人に普及してしまったのだとしたら、
それは痛ましい事である半面、
遅いよ、とも思う。

仮に個人の明日を全ての人が信じていないとしても、
自分がいない明日の社会が円滑だという保証があれば、
家族やなんかの事を考えてもそんなに絶望しないんではないだろうか。
だとしたら、今回の「以後」は社会不安も片棒を担いでいるのだろうか。
いやまぁ、社会不安が無かった時代がいつだか私は知らないが。

そんなことを考えていたら、昔々のことを思い出した。

両親が、何やら解らん話をしていたので、色々と訊いてみた。
「日本も戦争に絡まされるかもしれない」
という趣旨の話だった。
場所がよく分からなかったので教えてもらったように思う。
遠くのよく分からん所の戦争に何故日本が絡むのか、と理不尽に思った記憶があるから。

その話を聞いた時、言葉として何を思ったかは当然覚えていないが、
「戦争」という言葉に、反射的に周りの人との離別ないし死別を想像した。
それは覚えている。
人だけじゃなくて、
その時の、立て直す前の家のやにっぽい壁やソファや、
そういう物が無くなるのではないかという気がしたのも覚えている。
それは、まったくもって、明日への希望みたいなものを失くす話だった。

これはうろ覚えなのでねつ造の可能性もあるが、
その日寝て次に起きた時、
「今日にも戦争が始まるのではないか」
という考えにのしかかられていたような、気がする。

今の「以後」の社会は、
何となく、この時の私の心情に近いのではないだろうか。
理不尽で、不穏で。
何かを信用することが出来なくて。

個人が明日を信じることと、
複数人のコミュニティが明日を信じることは違う。
複数人のコミュニティの塊が「社会」になってしまうのだから、
私がどれだけ明日を信じていなかろうが、
誰かといる場所では、
明るかろうが暗かろうが、明日が来る前提で話をしたい。

例えば、明日私がいなくても、
店の人が何の支障もないように整えておく、とかね。

ささやかかもしれないけれど、
隣の誰かの「明日」を考えるのが、
ひとまずは最優先だと思うのです。
「明日」私がいなくなっても大丈夫なように、
「明日」私がいればよりパーフェクトなように。

そんな事を、ぼんやりと考えておりました。
相変わらずのお目汚しを失礼しました。
長文を読んでくれたあなたに感謝。

スポンサーサイト

2011-11-19 : 散思考 : コメント : 0 : トラックバック : 0
Pagetop
コメントの投稿
非公開コメント

Pagetop
« next  ホーム  prev »

プロフィール

かざみ

Author:かざみ
つれづれなる海月のような生き方を目指しております。

thanks10000hit!(10/10/'16)
把握出来る数字を飛び越えました!

FC2カウンター

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

< 2017年08月 >
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

QRコード

QRコード